子どもが生まれてから、こんなにも穏やかな日々を過ごせているのは初めてじゃないかと思っている渡邊です、こんにちは。
みなさんはどうですかー??
いつも通り子どもたちを叱って、でっかい声で怒って、ちょっとしたことでイライラしたりしてるんですけど(笑)
それでも、なんていうか、こんなに子どもとの距離を近く感じるのは、今までなかったんじゃないかなぁって思います。
子どもたちも心なしか落ち着いているように見えます。
その理由を、私なりに考えてみました。
お暇な方はお付き合いください♡
まずは、私の仕事がないということ。仕事がないと、こんなにも子どもとゆとりを持って過ごせるのかぁ!と…ヒシヒシと感じています。
私は、会社勤めと育児の両立は絶対に無理!育児を一番にやりたい!という考えで、お勤めは止め、自営業を選びました。
で、自分がいっぱいいっぱいになるようなスケジュールでは働きたくない!と思って、育児のあいまの余力で出来る仕事しかしないと決めていました。
まぁ、たまにパンクすることもありましたけど(笑)
それでも、どこかに勤める働き方よりは、ずーーーーっと自由に、自分のペースでゆったりと働けていたと思います。←あくまでも私基準で、です。人には忙しそう!って言われますけど。私としては、余力でしか仕事をしていないつもりです…。
でも、実際に仕事がなくなってみると、“ゆとり”がすごく生まれましたねぇ。
なぜだろう?
今までも、夏休み、冬休み、春休みなど長期休暇は仕事をいれずに、仕事がない時期は一定期間あったはずなのに、今のような“ゆとり”を感じることはありませんでした。
この“ゆとり”。
まずは、仕事がある生活があったからこそ知れた“ゆとり”ですよね。
私が専業主婦で、家事と育児しかしていない生活だったら、今、ゆとりを感じることはなかったと思う。
なんだかんだで常に仕事のことが頭にある生活を、ここ8、9年くらい送っていたということですね。
外に勤めてないから、外からのストレスはほぼなかったとはいえ、常にスケジュールを頭の中に入れておく生活に、思考は支配されていたのでしょう。
夏休みとかも。
仕事はなくても、子どもたちの宿題のスケジュールとか、休み明けのレッスンの内容とか…
思考は常に動いていたのでしょうねぇ。
今こうして、いわゆる“緊急事態”の中で、自分の思考を強制停止させられたことで、この“ゆとり”が生まれたのだと思います。
私が仕事まみれの生活をしていなかったら…、この外部からの“強制”がなかったら…、きっと生まれてこなかったゆとりです。
だから、ほんと、私は今この日々にすごく感謝をしています。
今このタイミングで、子どもたちとこんな風に毎日を過ごせる時間をもらえたこと、感謝しかありません。
テレビは一切みないし、自分の心に負荷がかかるような情報はシャットアウトしてるので…
世の中の流れとは全然違うようなトンチンカンなことを言ってるときもあるかもしれませんが、そこは広い心でご容赦くださいね。
私は、私が生きているこの狭い空間=家と近所の公園の中で、今までにないとても穏やかな日々を送れていることに、感謝をしています。
外部との不要な関わりが断たれている今だからこそ、そう感じることが出来るんだと思います。
不要な関わりとは、私的には人ではなくて情報です。外部には不要な情報が多すぎるので…。
仕事(=みなさんと過ごす時間)がイヤとかじゃないですよ!
働くのは好きだし、仕事は死ぬまでやめません。人と関わることもやめられないだろし、何かを書いたりしゃべったりして、きっとずっと発信していくと思います。
だからこそ。
今この隔離された空間と時間が有難い。
仕事は、私が自分で選んだ生き方ですから。この騒動が終わった後も続けますし、続け方も選ぶことが出来ます。だから、今から次の仕事が楽しみだし、新しいご縁がつながっていくことにワクワクもしています。
じゃぁ、学校は?
結構私の中で、学校の存在を見直す時間になっています。
学校の在り方、そのものにずっと薄~~~く、疑問を持っていたのですが、それが今回の“ゆとり”で、少しクリアになってきました。
今までの長期休みを穏やかに過ごせない理由のひとつに、学校がありました。
宿題の出され方や課題の取り組み方に、すごくしばられていたんですよね…。というか、納得がいかなくてモヤモヤイライラしていました。「この宿題になんの意味があるの?」って…。
今こうして、学校も強制停止させられたことで。自分がかつて学んでいたことを思い出しました。
ホームスクールってご存じですか?私も学生の頃に得た20年くらい前の知識しかないのですが。
学校に通わず、自宅で親が子どもをサポートしていく方法です。
日本だと不登校児の選択肢としてとらえられがちですが、アメリカでは、もっと別の理由でホームスクールが選ばれます。宗教上の理由だったり…あとは、学校の授業じゃ内容が足りない天才児のためだったり?
学校にいけないから家で親がみる、ではなくて、最初から家で学ぶことを選択する、という点が日本とはそもそも発想が違います。
情報が古すぎるので詳しくは語れないですが、私、今回の学校が強制停止になったことで、ちょっと本気でホームスクールいいな、やりたいな、って思いました。
家での生活を学校のように時間割で区切って、親が先生になって勉強を教える、ということではないですよ。そんなのつまらなすぎるしストレスが多すぎます。
家を小さな学校にするのではなく。子どもと一緒に生きていきながら、必要な知識を得て、思考を働かせていく学び方です。
学校の勉強の型にはめることが、こんなにも窮屈でストレスフルだったのか!と、ほんと思いました。
学校を否定しているのではありません。学校には学校のよさと必要性があります。国民全体が一定の学力を維持し、社会や文化が維持されるのは学校があるからだと思います。
しかしその一方で、型にはまりすぎて本来の生き方が出来ていない人もいると思うのです。(多分、かつての私もそのタイプ。学校がキライでした。学校で出会う人も98%キライだった。)
もっと柔軟であることの必要性、それを思い出せたのも、今回の騒動のおかげです。
全国、全世界的に学校が休みになるという、本当に強制停止されられたことで、世界中の人が「本当に必要なものはなにか」を考える時間を与えられたのだと思います。
心が冷静な人は気づいているはず。この騒動、本当にコロナだけのせいなの?って。
ちょっと想像の世界を楽しみましょう!
この騒動がコロナのせいじゃなかったとしたら…なんのために与えられた時間だと思いますか??
私は。
私個人的には、子どもとの関係に気づき、見直すための時間だっと感じています。
地球的には、いろんな仕事が止まったことで、ちょっと空気がキレイになったかな~。
人間的には、いろんな不便を感じることで、日常の便利さに感謝出来る時間じゃないかな。他者のありがたみを知るとか。無駄なものを知るとか。なくても平気なものって結構多いですよね。
電波的には、いかに人々が情報に操作されているかを知る時間でもあると思います。そしてどんな情報を得るかによって生き方が変わるということを目の当たりにしているのではないでしょうか。
世界的には、不要なものが淘汰され、いろんなものがリセットされていくのでしょう。
自分ではどうすることもできない大きな出来事に遭遇した時。
人は2つのタイプにわかれると思います。
嘆く人と、善さを見つける人。
自分と違うタイプの人は、きっと異物にみえることでしょう。異物に対する思考と行動で、また人の生き方は違ってくると思います。
それを決めているのは自分です。
出来事は外部から強制的に与えられたものであっても、それをどう理解して昇華していくかは、自分次第です。
嘆く人と、善さを見つける人。
両者のここから先の時間の使い方は、大きく変わっていくでしょうね。得るものも失うものも大きく変わってくるはずです。
タイプが違う人とは、お互いに伝えたいことがかみ合わないでしょうから…そこから新しい諍いが起きないことを祈るばかりです。
みなさんにとって、この時間はどんな時間ですか?
もう少し、この窮屈な時間が続いて、そこから解放されたとき。
どういう生き方をしたいと思いますか?
今日は月から地球を眺めているつもりで書き綴ってみました。
同じ世界観の人に、拾ってもらえたら幸いです。
感謝♡
みんなとおしゃべり